伝説のパソコン:98FELLOW物語(1)ー「日の丸パソコン」、国民機とさえ言われた「PC98」
私が記録に残しておきたい現役時代の仕事の思い出です。
もう25年以上前ですが、後から振り返ると私の現役時代に一番思い入れがあり、やりがいを感じたパソコン超速開発の記録です。
熱に浮かされたように一気呵成にやりとげた当時のNEC新潟工場の開発・生産部隊のメンバーのためにも残しておきたい記録です。
その後の2001年にNEC新潟工場(*)はリストラで売却され、当時の開発・生産部隊のメンバーの多くはちりじりとなり辛酸を味わいました。当時のメンバーの1990年代前半の仕事に輝いていた時代の記録でもあります。
(*)NECのパソコン事業は1990年代後半からWindowsの浸透・パソコンのコモディティ化(誰でも作れ参入障壁が低くなり)海外勢との価格競争に徐々に勢いを失い、遂に2000年代にはNECのパソコン事業のリストラが始まり2001年にNEC新潟工場は富士ゼロックスに譲渡されました。
さらにその後の2011年にNECのパソコン事業は実質的に中国のパソコンメーカー:レノボに売却されレノボの子会社となりました。
伝説のパソコン低価格機:98FELLOWの超速開発
私があの伝説の「日の丸パソコン」、「国民機」とさえ言われた「PC98」の主力開発拠点の1つ、NEC新潟の開発部長として赴任したのは、こな雪の舞う91年12月の寒い日でした。
私が関与した当時のエポックメイキングなPC98の開発の現場の歴史を振り返ることから、当時のPC開発組織体、開発手法、マネジメント論の特徴を抽出して、当時の製品開発と生産のマネジメントの実態を記録しておこうと思います。
また、当時の開発部隊・生産部隊の思い入れの記録として、自分史としても残しておきたいと思っています。
91年当時は、PC-9801は日本ではシェア60%を超えるガリバーブランドだった。
「98」、「キュッパー」、「きゅっぱち」(この発音も懐かしい!)と言えば日本中の共通語だった。それまでは日本はいわばパソコンの鎖国状態に近く安眠をむさぼっていた。
そこに大事件が勃発した。 忘れもしない92年10月に世界一のシェアのCOMPAQが12万円($1000PC)というショッキングな低価格の大砲を備えた黒船で日本に上陸した。
マスコミでも“コンパック・ショック”、“日の丸パソコン危うし!?”と大きな話題となった。
マスコミでも“コンパック・ショック”、“日の丸パソコン危うし!?”と大きな話題となった。
Column
国民機98シリーズの歴史・系譜はAmazonで「蘇るPC-9801伝説 永久保存版」を購入できます。
この記事を書くために再度購入してうろ覚えの記憶を振り返りました。
PC-9801の最終出荷が04年3月だったのを記念して、アスキーさんがPC98の永久保存版を出してくれていた。 さすがはアスキー、多謝!
98に関わっていたものとしては懐かしい記事が満載だった。 ハードの話が少くないのは残念だが、多くの思い出のゲームがCD添付されている。
創世記のパソコン業界の記事や9801/9821の完全年表や9801が初めて世に出た時の月間アスキー1982年号パロディー復刊綴じ込みなど、永久保存版として満足な内容だった。
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