孫の手ー東日本大震災直後の初孫誕生の記録・思い出

初孫誕生の記録・思い出

東日本大震災(2011年3月11日)の2か月後に私の初孫が誕生しました。

発災後の最大の恐怖は福島第一原発の全交流電源を喪失し原子炉を冷却できなくなった結果、原子炉破壊が起きる恐れがあった危機でした。 
原子炉が破壊されて大量の放射能が広範囲に飛散すると福島県に限らず首都圏全域でも放射能汚染で住めなくなる恐れがありました。東北太平洋岸の津波による破壊的経済打撃に加え首都圏の経済も完全に麻痺してしまう。そんなことになったら、日本は再生どころか、日本は完全に沈没する。

妊娠8カ月だった私の娘を私の故郷(愛媛県)へ疎開させることも真剣に考えました。
そのため、毎日、TVの福島第一原発の推移の報道にかじりつきました。

まさに危機一髪でした!原子炉への大量注水などの必死の総力を上げた対策が辛うじて奏功して原子炉の破壊はギリギリで免れて首都圏の放射能汚染の心配はほぼなくなりました。神様が救ってくれたとしか思えず本当にホッとしました。

娘と初孫の里帰り

その年の5月18日(水)の早朝、無事に娘に男子を授かりました。
初孫の誕生だ!

出産後リハビリのため3週間ほど、八王子の我が家に里帰りし、赤子の1ヶ月検診を機に自分のアパートに帰っていきました。

何やかやと騒々しい存在が去って通常に戻ったが、急に静かとなり何か物足りなく寂しいのが不思議だ。 ホームページに初孫誕生のことを書こうか否かと迷っていました。 身内のおめでたを嬉々としてブログに書くのは性に合わないし、面白くもないとも思った。 しかも、私はそもそも赤ちゃんや子供が昔から苦手だった。

娘は1年前に流産していたこともあり、心配したが何はともあれ五体満足な赤子を授かり、安堵するととも神様に感謝した。
孫に初対面した産院の帰り道、この孫の成人までは多分自分は生きられないだろうなと、ふ~と寂しくなった。

孫が大きくなったら、「じいさん」のブログで自分の誕生のときのエピソードを知りたいと思い視てくれるかもしれない。 ということで「初孫誕生直後のあれこれ」を記録しておくことにしました。

孫の手と君の名は

初孫の手

 

・誕生日時、場所:2011年5月18日(水) 5時34分、東京都江戸川区南篠崎町、杉浦ウィメンズクリニック

・体重、身長、他:2,860g、48.3cm、頭周り31.7cm、胸囲31.5cm、

・写真は誕生直後の「孫の手」、この手で背中を掻いてくれ!

 最近は赤ちゃんの体重が2,500gを超えると母体に影響が大きいから出産を早めるという話を知った。 この孫は父親の休日(火、水)にピッタリ合わせて、5/17(火)の夜に産気づき、夫婦で遅滞なく産院に駆け込むことができた。 早くも親孝行している。

・私は5/18(水)午後に産院を訪問し、初対面した。 窓越しに見ていると「看護婦さんが抱っこしてみますか?」と声を掛けてくれた。 生まれた直後だのに抱いていいのですか?と躊躇したが、「どうぞ」と言われ、初抱っこ。 生まれて半日しか経っていないのに既にしっかりとした赤ちゃんだ。 これが初孫か、面映い不思議な感覚。

・出産予定日は6/7だったから、2週間以上も早い出産だった。 お陰で八王子の我が家の風呂のリフォームが完了しておらず、八王子へ迎えるのが10日ほど遅れた。 リフォームが遅れたのも大震災の影響、サプライチェーンが切れてユニットバスが手に入らず、タイル張替え方式に変更したがそれも遅れた。 

命名:晴貴(ハルキ)、婿さんは「晴」(ハル、ハレ)の字の音と明るいイメージが好きで、この字「晴」は最初から決めていたそうだ。 「キ」は漢字が少なく、どの字にするかあれこれ迷っていたそうだ。 誕生の日に私が娘に安堵したとメールした中に「3.11の大震災で多くの尊い命が失われた直後に生まれた「貴重」な命だ・・・・・」と書いていたので、「貴」にしようと字画数も調べて問題がなかったので、「晴貴」と命名したと聞いて、何か嬉しかった。

そう言えば、娘が結婚するときに、「私の名前の由来は?」と聞かれたときに、あっさり決めたとかあいまいに答えてがっかりさせたことを思い出した。 罪滅ぼしに孫の命名の由来をキチンと記録しておきます。 今、流行の奇をてらった洒落すぎの名前でなくてよかった。

・「ハルキ」と聞いて、思い出したのは1952年に「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」と言われて一世を風靡したラジオドラマ「君の名は」の主人公の真知子と春樹。 それと人気作家の村上春樹。 漢字は違う。 娘はもちろん「君の名は」は知らなかった。 私も古い。 しかし、「ハルキ」は60年も前に流行ったレトロで古風な響きの名前とも言える。

一生に何万回も自分の名前を書くから、字画数は少なく書きやすく響きのよい字が良い。また、グローバル時代だから英字表現しやすいこともポイントだ。(自分の子供にもそのように付けたつもりだがキチンと説明していない。)

・6/4(土)に足立区のアパートに車で迎えに行き、八王子の実家までつれて帰った。 事故を絶対起こしてならず、慣れていない首都高速の車の運転に手に汗を掻き、ひどく緊張した。孫は車に乗った直後は環境が変わったのが分かるのだろう、キョロキョロしていたが、泣きもせずにそのうちに寝てしまった。 大物か鈍感か??

・孫ができると「おじいさん」となるのは当然だが、「じいじいに見てもらおう、じいじいに抱っこしてもらおう」とか周りから平気で言われる。 最初はムッとしたがそのうちに、自分から「じいじいですよ」とか言っているから恥ずかしい。

・6/7(火)に婿さんは休日で八王子まで合いに来て1泊した。 その晩は北野のうなぎ名店から「うな重」を取り、岩手産の「頑張ろう東北」ワインを買って帰り、ささやかな初孫誕生祝いをした。 「うなぎ昇り」の人生になるように。

婿さんは本当に子供好きだ。晴貴を抱いて放そうとしない。 仕事を頑張れるので孫の写真を、毎日携帯メールして欲しいとリクエストしているようだ。 IT時代だからできることだ。

婿さんは赤んぼうを1週間振りに抱っこすると随分重たくなっているという。 確かに反り返る力も日々強くなり抱いている手が痛くなる。 母親は24時間対応せねばならず大変だ、確かに母は偉大だ!

・土日は私(じいさん)が一応休日のため、主夫担当で炊事・雑用係り。 得意だった炊き込みご飯を作ったが大失敗。 気張って作ると往々にして失敗する。 少し固いが味はいいよと慰められる。 月・木・金は「ばあさん」が炊事係り、火・水は婿さんが休みで八王子に飛んでくるという風だった。

・6/16(木):孫の伯父(つまり私の息子)が急に合いにきた。私は不在だったが、娘の話では、お兄ちゃんは意外にも大変な赤ん坊好きでおしめの取替えも大変上手だったそうだ。 独身だのにどこで経験した!?

・天然水の買出し係り:娘は放射能は気にしていないと言いながらも、八王子に来てもやはり天然水しか使わない。 赤ちゃんの母親とはそういうものだろう。 何度も重たい天然水の買出しに行かされた。 福島第一原発事故の状況が酷くなるなら、私の愛媛の実家に疎開させることも在り得たから当然だ。 原発はまだ安心できる状況ではなく、最近、都心でも放射能線量が多いホッとスポットがあるとか言っており気がかりだ。 原発事故は本当に罪深い。

・娘と孫が都心のアパートに帰った後の天然水や食料・雑貨の買い付けはイトーヨーカ堂のネットスーパーを利用するようにアドバイス。 赤ちゃんの世話でくたくたの母親には、ネットスーパーは有難い存在になるはずだ。 これもIT時代の恩恵だ。 

・6/21(火):八王子から都心のアパートへ戻る日。 婿さんがチャイルドシートを買ってからやってきた。 ネットで物をみないで買うのは心配なので自分の目で確かめて買ってきたようだ。 車にチャイルドシートを取り付けるのは結構難しいようで、1時間ほど掛かった。 取り付け&使用のDVDマニュアルまで付いていて婿さんは心配なのかじっくり見ていた。 

持ち帰る布団セットや沐浴のタライなど荷物いっぱいを何とか車に積み込んだ。 最後に孫の晴貴がチャイルドシートにすっぽり収まり、「ん、なんか違う?」という顔つきをしたが泣かなかった。 安全運転で帰るように言って見送った。 急に静かな家になった。

・アパートに帰った翌日から35℃を超える夏日となり、大変だったようだ。 1ヶ月検診で特に問題なく、体重も4Kgを超えたとか、成長が早い。

以上が初孫誕生直後の実家滞在の記録です。 赤ちゃんは本能的に大人をとろけさせる魔法を備えていますが、自分の初孫となると、自分の残された寿命から新しい命の連鎖を感じて、ギャーギャーと煩いけれども愛おしい存在ではあります。 

私が生まれた1947年は戦後の混乱期で、都会の京都だったから、亡くなった母は食料調達で随分苦労したようだが、当時の苦労話をもっと聞いておけばよかったと悔やんでいる。 昔は赤ちゃんが泣いてもほったらかしにして仕事や農作業をせざるを得なかった。 それに比べれば今の赤ちゃんは平和で過保護すぎるくらいに恵まれている。 過保護にすぎず、すくすくと闊達な男に育って欲しい。

 

(この記事は私の個人ブログの2011年6月28日の記事です。終活の一環で個人ブログを閉鎖予定のためこのHP(シニア・ネクスト)に転載しました。)

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