伝説のパソコン:98FELLOW物語(2)ー黒船パソコンの来襲!
黒船パソコンを迎撃せよ!
92年10月に日本でコンパックの$1000パソコンProLinea386/25の発売開始を受けて、パソコンの黒船来襲と衝撃が走りました。
衝撃的だったのがその価格で最安値モデルは12万8千円で、当時PC9800シリーズで一番安かったのはデスクトップパソコン「PC-9801US」が24万8000円(定価、実売価格は17万円強)からでしたから、定価で約半値、実売価格でも3割安の衝撃価格です。
コンパックが1992年10月に発売した黒船パソコンProLinea(画像提供:日経パソコン)
10月半ばに我々に緊急召集が掛かりました。
当時、NECでパソコン事業を司っていたのは「第二OA事業部」という事業部でした。
「二OA」というと、PC9801シリーズを立ち上げて成功に導いた大事業部として、社内や業界にも知れ渡った名前でした。
新製品の開発と生産の分担は、二OA事業部が「製品計画や販売計画」、二OA配下の複数の分身会社が「開発と生産」を行うという分担体制で行っていました。
この二OAでは黒船パソコンの日本上陸を受けて、コンパック迎撃の製品計画を超特急で作り上げていました。
緊急会議で打ち出された新製品計画のあらましは次のようなものでした。
・Windows時代の幕開けをリードするため、新たに2つのシリーズを立ち上げる。 Windowsモデルとして「98MATEシリーズ」、低価格のDOSモデルとして「98FELLOWシリーズ」を新しいブランドとして投入する。
・コンパック迎撃として、新シリーズ98FELLOWは大幅にコストダウンした低価格モデルとして93年1月前半の発表・出荷を必達する。
・98MATEシリーズはWindows対応の9801後継主力機として最新のCPU(486DX66)を採用しDOS/V勢に対抗する。認知度を上げるため、型名は新たにPC-9821と定義する。
・外観デザインは外国のデザイン会社を採用し、新シリーズの清新さを打ち出す。
開発&生産担当は、98MATEは「NEC群馬」と98FELLOWは私のいた「NEC新潟」と決まりました。
98MATEはこれ以前に先を見越して先行技術の開発はある程度進んでいましたが、コンパック対抗の98FELLOWはほぼゼロスタートの状況で、技術的な難しさよりも、翌年1月に間に合わせるためには2ヶ月しかなく、絶対的に開発リードタイム(必要な時間)が不足していました。
この時から、98FELLOWの疾風怒涛の開発が始まりました。
<Column>
当時(90年~93年)のパソコンの市場環境を概観しておきます。
1)90年5月:北米でマイクロソフトがMS-Windows3.0発売、
大きな反響が起こる
2)90年10月:日本IBM DOS/V規格の「DOSJ4.0/V」発表
引き続く90年12月に日本IBMがDOS/V規格を普及させるためにOADG(オープン・アークテクチャー・デベロッパーズ・グループ )を設立
→DOS/V機の立ち上がりのキッカケとなった。
参考:DOS/Vとは?
3)91年2月:NEC PC-9801シリーズ用MS-Windows3.0日本語版発売
→日本におけるWindows時代の幕開け、MS-DOS時代のメーカー間でAPソフト非互換の障壁を崩すこととなったエポックメイキングな転換がここから始まった。 Windows対応の機種を選ばないAPが出回るにつれて、PC–9801シリーズの優位性も徐々に低下していくこととなる。
4)91年5月:日本IBM DOS/Vパソコン(PS-55Z)発表
5)91年7月:COMPAQが日本法人を設立
5)92年3月:COMPAQ 日本向けDOS/Vパソコン発表
→DOS/Vパソコンの日本上陸、
6)92年5月:北米でマイクロソフトがWindows3.1発売
7)93年5月:日本語版Windows3.1を発売
8)93年10月:富士通がFMVを発売 DOS/V路線に転向
それまでのPC98アーキテクチャー陣営(NEC、エプソン)の寡占状態が崩れ、DOS/Vアーキテクチャー陣営との厳しい競争が始まった時代でした。
参考:日本のパソコンの歴史の理解になるURLです。
・一世を風靡したNECのPC-9800シリーズ:さようなら98 (出展:All About)
・第1回 日本のPC史を振り返る(前編)~PC-9801の時代 (出展:@IT)
→パソコンの技術的な用語が判る方は、こちらが詳しく記載。
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