伝説のパソコン:98FELLOW物語(4)ー国民機を支えたPC98開発&生産組織

国民機を支えたPC98開発&生産組織


ここで90年代前半のNECのPC98の開発部隊、生産部隊の組織を振り返っておきます。

PC98シリーズが82年に初代のPC-9801を世に出してから04年3月に最終出荷の終焉を迎えましたが、その間の累計出荷台数は1830万台にも達したとのことです。

 

参考:蘇るPC-9801伝説 永久保存版―月刊アスキー別冊

PC98が国民機と言われるまでに浸透した理由としてよく挙げられているのは、

初期のころにソフトや周辺機器を増やすために他社に先駆けてサード・パーティに情報公開し支援育成した 

PC98で動くアプリケーションソフトや拡張機器の豊富な資産の蓄積

旧型機との徹底した互換性の維持をポリシーとした  

などです。

それ以外にもあまりマスコミでは触れられなかったですが、成長期以降は多くの新製品ラインアップを大量に一気に出荷できる「デリバリー組織能力」が、もうひとつの強みになっていたと思います。

88年~98年のPC98の新機種の投入数推移を見ると

88年:8機種、89年:10機種、90年:10機種、91年:13機種、92年:11機種、93年:21機種、94年:26機種、95年:37機種、96年:45機種、97年:38機種、98年:8機種(*1)

(*1:この年より、PC-NXシリーズでPC/AT互換対応へ移行本格化)

93年以降に新機種の市場投入が大幅に増加していることが判ります。

国内のパソコン出荷台数の推移を見ると

91年:190万台、92年:177万台、93年:238万台、94年:335万台、95年:570万台、96年:710万台、97年:685万台、98年:754万台 
(出展:日経パソコン用語事典 (2005年版) CD付

 

93年からパソコンの出荷台数は飛躍的な伸びを見せています。 これは、パソコンが役に立つことが広く認知され、低価格化やWindows3.1で使いやすくなったこととパソコン通信の普及などと相まって、企業ではパソコンは1人1台、家庭では1家に1台の時代が到来したためです。

 

90年代の98開発&生産組織

95年6月にNECのPC98シリーズの累計出荷台数は1000万台を突破しています。90年代始めは、98の開発および生産は100%国内開発&国内生産で、その大量開発&生産の組織能力を増強しだした頃でした。

① 二OA事業部:事業計画、製品技術(製品企画)、先行技術・共通技術開発、ソフト技術、生産管理、信頼性管理 など

② 開発&生産分身会社

 NEC群馬:98デスクトップ標準モデル

 NEC米沢:98ノート、北米向けノート

 NEC新潟:98デスクトップ上位モデル、北米向けAPCデスクトップ

(NEC新潟工場の当時の売却前の写真)

 NEC静岡:モニター、98オプション機器、98マルチ(後に)

③ ハード開発の分身会社

 NECエンジニアリング゙:98オプション機器、98MATE(後に)

 神戸NES:98タワー、北米向けAPCタワー(ハード開発)

④ ソフト開発の分身会社

 東京NES:ソフト総括、OS、BIOS(OSを動かすための起動ソフト)、

 神戸NES:SI(システム統合)、システム評価&互換評価

 沖縄NES:グラフ系開発評価

 北海道NES:ファイル開発評価

 中部NES:言語系

 製品開発&生産の主力の②の4つの分身会社は技術(ハード中心)が各々100人前後、生産関連が各々350~450人程度だったと記憶しています。

二OA事業部の技術人員とソフト開発の分身のメンバーも入れて、総開発人員は1000人を優に超えていました。 生産能力も各生産分身が月産10万台突破とか競い合って生産能力を上げていた時期でした。

今思えば、国内で100%開発し、国内で100%生産出荷ができた頃で、自分達の開発した装置を、一から自分の工場で量産立ち上げして、技術と生産・検査・資材調達が密結合で丁々発止とやっていた活気のある面白い時代でした。

 

Column 旬のメンバーが揃っていたNEC新潟

PC98が「日の丸パソコン」と言われ、出荷を大きく伸ばしていた90年代、それを裏で支えたのは多くの新製品ラインアップを大量に一気に出荷できる「デリバリー組織能力」を持ったPC98の開発&生産組織でした。

主力開発&生産拠点の1つのNEC新潟も若き旬のメンバーが揃った勢いがある時代でした。

技術部は20代~30代前半の若く優秀な技術者が揃っていました。技術部は約90人、事業部からの出向者も増え、年々新人採用も増やし、新製品の開発能力を増強し、パソコン開発に必要な自己完結できる開発ファンクションをほぼ自前で持っていました。

また、製造部(当時はOA部と言っていた)も30代~40代前半の経験豊富なエネルギッシュなメンバーがキーマンとなって生産能力の増強に大活躍していました。
人望が厚い親分肌のK部長のもと、計画のM課長、生産管理の五位野課長(惜しくも若くして鬼籍に入られました。)とN主任、生産技術のT課長、などなど生産のプロのキーマンが多く揃っていました。
(亡くなった五位野Kを緊急に会社に呼び戻す時は「パチンコ屋の中を探せ!」が合言葉だった!?)

技術部の若いメンバーは製造の物作りの現場の実際を知らないことが多く、OA部のキーマンから設計のダメだしをされたり、アドバイスを受けて成長させられました。

資材部も技術部から頻繁に出る部品の変更手配に「またか、いい加減にしろ!」と言いながらも「仕方がないな」と事業部や本社国際資材部と連携して気持ちよく動いてくれる頼りになる資材部でした。

NEC新潟工場全景

(1990年代のNEC新潟工場の全景、NECロゴは旧ロゴの時代)

98Fellowがその超速開発出荷のミッションを達成できたのも、NEC新潟が若き旬のメンバーが揃った「時の運」と黒船パソコン撃退に燃えた「火事場の馬鹿力」があったのは間違いありません。

 

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